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来る8/10(日)に明治神宮、参集殿で拙作の上映+座談会イベントを行います。

「現在(いま)」を知るということ」と題しまして、
震災後、人はどのように生きるべきなのかということを
民俗、そして祈ることという論点から考えていきたいと思っております。

映画『産土ー壞ー』の東京初上映に加え、
素敵なゲストをお呼びいたします。

二年前の最初のシンポジウムでご登壇頂いた、
民俗学者・野本寛一先生と、羽黒山伏・星野文紘さんの
夢の競演を皮切りに、明治神宮から今泉宣子さん、そし私の座談会、
司会は元福島テレビの長久保智子さんにお願いできました。

来場の方には映画のパンフレットを差しあげます。

先着250名様までとさせて頂きますので、
お早めにお申し込みください。

 

日時:平成26年8月10日(日)13:30~17:00(13:00受付開始)
場所:明治神宮 参集殿
定員:300名
参加費:2,500円(税込)※事前予約制
こちらのサイトからお申込みください。(Facebookイベントページに「参加予定」にしていただくだけでは「事前予約」にはなりません。ご注意ください。)
http://ubusuna2014.peatix.com/

 

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サッカー日本代表の勝敗に、さほど関心を示さなくなったのはいつからだろうか。
たしかに、これまで僕はある途方もない熱狂に包まれていた感覚があった。手と額に汗を掻き、
多くの局面や展開に肝を冷やしては、選手の名と各種悪態を時折絶叫したものだった。

今、テレビをつければ夢の世界=ワールドカップが繰り広げられている。(多くは夜半だが)

そして我らが代表は世界の壁にまたしても阻まれようとしている。(二試合を終えて)
が、そんなことはどうだっていいのではないかという禁断の意識がもたげている。
腫れた第一蹠骨に湿布を貼りつつ、過去の記憶をかろうじてたどってみる。

98年のフランスで、今や解説者席に中年面を晒す城や中山や秋田らが歴史的初出場に顔を紅潮させながらみすぼらしい炎の刺繍のあるユニフォームをまとって無惨に散った時。はたまた戸田の真っ赤なモヒカンヘアーも懐かしい2002年に、柳沢敦が「急にボールがきた(QBK)」と言って失笑をかったのを酒場で見知らぬ人々と絶叫しながら目撃した時。そして2006年のブラジル戦で中田英寿が「旅人」へと属性を変えながら仰向けで号泣しだした時…それらの時、場面の只中で、おのれの感情はやおら一喜一憂し、俄にアップアンドダウンしたものだった。

…僕にとってW杯の季節は、丁度痛風の季節である。無論梅雨の湿気によるものだ。2010年の南アフリカ大会、失意とともに会社を辞めたばかりで、祐天寺の安アパートで尿酸値と血圧と各種分泌液の上昇による感情の狂奔にこらえつつ、テレビの一つもないその狭い部屋で、彼女の携帯電話のワンセグモードから我らが代表が決勝トーナメントへと進む様を目撃したのであるが、しかしかつてのような情熱が身体をつんざくことはその時点ですらなかったのかもしれない。しかし気怠い朝の寝床のように、まだ熱狂から醒めたくはなかったのかもしれない。(それよりも痛風の鈍い痛みがつんざいていたこともあるのだが)

長々と書くのも気が引けるので、あっさりと終わりまで書き上げよう。

 

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22 6月 ’14 mileblog

piano : Harumi Nomoto / fretless bass :  Ryoji Orihara / drums : Sohnosuke Imaizumi

Action Paint : Keiichiro Furukado / Camera assistant : Taigo Kawaguchi (NMP) / Special Thanks : Plat Ease

Camera & directer,editor : Mile Nagaoka (NMP)

 

友人のピアニスト、野本晴美さんに依頼され制作した映像です。

今となっては数少ない東京時代の友達で、ピアニストとしては知る人ぞ知る存在。

雨の表現などにどうしても120Pを使いたかったので、プラットイーズさんにREDをお借りしました。

撮影場所は神山のお茶工場。

途中のカラフルな部分は、アーティストの古門圭一郎さんに実際にアクションペイントをしてもらい撮影しました。

映像は他に3バージョン程あり、また順時公開していくのでお楽しみに。

 

15 5月 ’14 Client Works

MILE NAGAOKA 2011-2014 from Mile Nagaoka on Vimeo.

 

「俺は「地域」という浮ついた言葉が大嫌いだ」ということに自覚しだしてから、まだそう間が経ってはいない。それは、或種の幻想や逆転したコンプレックスが吐く言葉であり、「地域」というものの実態そのもの、そしてそこに住まう人々は捨象されているからだ。

 

気怠さと旅行気分の陽気なロケで撮られた幾多の映像たち、そこに「人生」と「顔」が写っているか。

手仕事や悲喜こもごもが、写っているか。無論過剰なまでに切実なものを追う先達がいるのも知らんではないが、そういう人にどこかで遭うことは稀である。(あ、一度富士山を臨む早朝の山頂で、山の写真家と出会ったっけ)

 

自分が「産土」という言葉に込めた(いと思った)のは、そういった「地域」や手垢でギトついた「グリーン」等という言葉たちと、その無邪気な吐露者等への明確なアンチテーゼであった。

 

 

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21 4月 ’14 Client Works

sa-rah 2014 from Mile Nagaoka on Vimeo.

music by SonobeNobukazu
photograph by Hideaki Hamada
book design&edit&text Kanako Mori
filmed, edited by Mile Nagaoka
clothes design&coordinator:Chiaki Boshi

sa-rah.net

19 4月 ’14 Client Works

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去来する空しさを漉かせるには、

眼前の塵埃に身体を晒すことと、

日々の日常を精一杯乗り越えることだ。

 

 

 

18 4月 ’14 mileblog

ちわ、参です。

 

せっかく作った動画を貼ろうして、サムネイルが以下のようになってしまう場合がけっこうあります。

スクリーンショット 2014-04-08 20.10.58

 

今回貼れなくてけっこう困ったので調べてみました。

vimeoのフォーラムに以下のように。

 

スクリーンショット 2014-04-08 20.13.07

詳細は小生にはよく分かりませんが、URL情報のバグのようです。

解決策は簡単。

 

1.vimeoの設定ページに行く。

2.設定左にあるカスタムURLに行く。

3.任意のカスタムURLを適当に設定して、保存する。

4.そのURLをペーストして、FBに貼る。

 

以上とのこと。

さっそくやってみたところ、

 

スクリーンショット 2014-04-08 20.08.33

 

できましたー。

 

 

8 4月 ’14 mileblog

イエレポート case09 from Mile Nagaoka on Vimeo.

 

撮影・編修:川口泰吾

ディレクション:長岡参

 

イエレポート case10 from Mile Nagaoka on Vimeo.

 

撮影・編修:川口泰吾

ディレクション:長岡参

 

15 3月 ’14 Client Works

ようやく、映像の編修の追い込みと上映という緊張感から解き放たれたが、
こなさなくてはならない仕事は減らないし、同時に風邪もひきかけているような現在、
先日発表したパンフレットの文章を、また字数制限のために添削する前のものを掲載しておこうとおもう。
以下本分。

 

「丁度良さ」

なんとか二年目のキャラバンも無事終えることが出来た。

今振り返ってみると正直言って、そもそもこんな無謀な企画が実現出来るとは思ってはいなかった。
日本の山村漁村の現在を廻ると言うことは数秒で済み優しいが、実際に行くとなると大分事情は変わる。

身体を旅の中に預けると、それまでの意図や推論は消え去ってしまう。旅の時間は目まぐるしく、新奇な物事が入替り立替り登場するため、理解が追いつかない。撮影した素材を編集し終える段まで来て「ああそういうことだったのか」と首肯けることばかりなのである。

そうやって一年のうちの何割も古色蒼然としたものばかり見続けていると、ふと数時間で戻れる都会に戻って我に返ると、なんともいえぬ徒労感に襲われる。「限界」の老人の話しばかり聴いていると、都市の若い人々の多幸感の横溢がたまらなく遠く感じて、子供と老人の間に位置する自分自身の存在を見失いがちになる。

それでもなんとか幾つもの「今日」を歩いてこれたのは、多くの先達たる民俗学者や郷土史家、教育委員会の担当者等、何かの散逸を必死に守ろうとしている人々の熱意のおかげだったと思う。

無我夢中でしがみつき乗り切った初年度は、後から考えるともっとできたのではないかという想いが幾度も去来し自責の念が駆け巡った。その目の前に起きていた事象を把握するには、僕らは余りにも無知で門外漢であった。そんな自省とともに迎えた二年目は、機材もキャノンの5Dマーク2からマーク3になり、c300やRED等の高価な機材も現場に投入できるようになったりし体制も少しは整った(といえ以前脆弱には変わりがないが)。そしてなによりも本質的な事、その深奥に迫りたいと思った。本質…当世のドキュメントを作るものとして当然福島や原発を避けることはできなかったし、「森とともに生きる」と号した手前、森の本分を知らねばならかったし、恐れ多くも『産土』と題してしまった手前、それがそもそも何なのかということに答えを見つけねばならなくなった。無論、それは非常に困難が伴う旅であった。だがやると言ったからにはやらなければ恥ずかしいし、人生は一度しかないのだから挑まねば損というものである。それは僕なりの責任感というものなのかもしれない。

出立にあたり「スケッチ」という言葉が手懸りとして浮かんだ。幾多の場所で膨大な会話や風景を記録したところで、二時間程度の映画で語れるものは僅である。体制に限界があるので十全で執拗な取材もできるわけがない。ゆえに僕らが取れる手法は「スケッチ」ではないか。大事なのは、こちらの心の振幅を素描することではないか。それを芭蕉は「黄奇蘇新(こうきそしん)」と呼んだ。一切の瑣末を省けと。

一つ一つの出来事や人物は、大きな概論として括られることを拒んでいるように感じられる。が編集してそれを説明しようと知らず知らず編集者は概論を所望するようになる。今年は出来るだけ括るのをやめたかった。本作は幾多のスケッチのピースを土台にしたパズルのようなもになる筈である。ゆえにそれがどういう意味を持ったものとして像を浮かび上がらせるかは皆目分からない。このご時世にあってはスレスレのものをテーマとして設置してある。賛否が囂々と寄せられるのは覚悟の上だがそれを避けて通るようなもの等、後世に対して価値があるだろうか?とも思う。

前作は上映の為各地を廻っているが、上映後数人の観客の方から「現実は分かりました。で、どうしろというのですか?」「あなたは悲惨な事実を見せてどうしたいのですか?」という声を頂くようになった(大抵は団塊の世代の方だ)。たしかにもっと希望となるべきものを撮れば良かったかとも思ったが、浮かび上がったパズルから何を見るかはこちらの与り知る処ではなく、そこから省みてどんな行動を起すのかは、無責任にそう問うたご当人の問題である。…が、この場を借りて僕自身の考えを僅に述べておくことにする。それは「国土」から「産土」への価値観の顛倒、いや回帰ではないのか、ということだ。「戦後レジームからの脱却」などの語彙では本質を見失う、言うなれば明治レジームからの脱却を図らなければならないのではないかとも思う。僕らは明治への入り方を多いに間違ったのだと思う。

今から江戸時代に戻ることはできないが道しるべとなるヒントは、福島の紙漉職人西森さんが言うように、個々人が「調度良さ」を探すことではないのだろうか。彼が水と繊維との混じり具合を探求した果てに吐く言葉はとても重い。ただ過去を礼賛するのではなく新しいものと混ぜること。つまり、漉くこと。その漉き方が問われている。

この100年余り、金の追求で現在の姿、国土が出来上がったのだろうが、経済の持続的発展というフレーズも今や空虚である。そもそもを考えるべきだ。経済(エコノミー)という語は、オイコスとノモスという言葉の合成であり、家計や家、地域をどうやりくりするか、考えるか程度の意味である。つまり産土という語に近いのである。

天下国家を嘆いてだんまりを決め込むのではなく、或は様々な悪党たちの村を妄想してやおら批判にあけくれるのでもなく、ひょっとこのように裸になり森で踊ってみることの方が大事ではないのか。ようは一人一人が漉くという態度で生きることが大事なのであり、それが緩やかにまとまり、結状に展開していって欲しい。願わくは、その探求の初動の契機に「産土」の二文字が入っていて欲しい。主語を自分に住まう地域に変える事で、吐く言葉もとるシグサも変わるのではないか。

…自分の考えはもうたくさんだが、最後にもう少し書いてみる。

鹿児島の民俗学者から聴いたのだが、共産圏のラオスでは軍人が皆伐を断行しつづけているが、山の上だけは祟りを恐れ残すのだという。それをピ信仰という。はたまた今回の参加作家であるイギリス人のルーファスが、神山のどこかの山の上で散歩中、突然恐怖に襲われて廃れた神社に手を合わしたのだという。彼は無神論者である。…なぜそんな不合理なことを未だに人はするのだろうか。

旅を続けて思うことがある。

日本は、どこまでも開発され過ぎている。橋梁は海にそびえ山はトンネルだらけだ。原発の付近に立って見ると賛否を云々する前にどこか異様な、地獄と形容したくなるような感覚に襲われる。かつての聖地はガソリンスタンドに塞がれ、参拝日は忘れられ、山の神・田の神の繋がりも混線脱線し捩じ切れて森は廃棄物に覆われ尽くす。そこで素朴に思うことがある。

ーカミがそこにいるならなぜ怒らないんだろうか、と。

祟りは、まだあるにはあるのだ。いくつかの事例も聴いたし、自分自身ニソの杜の奥がに入り込んだ後、なにか変な感じがあった。たしかに羽田空港や大手町の将門の首塚みたいな例外はある。があちこちで産土は糊塗されつづけている。怒っているという話しも聞いたこともある。

だがカミはなぜ人間の開発を拒まないのかそれが不思議だ。僕の暫定結論は以下だ。人はそれでも、祭祀をしつづけているからだ、と。習合の習合を重ね、変遷を繰り返し、神と仏の首を相互にすげかえても、人は祈り続けてきたのだ。無論祈れば何をしてもいいというわけではない。が、何かを恐れ敬う気持ちがある限りにおいて、僕らは守られているのではないか。…産土は僕らをまだ見捨ててはいないのだ。

長岡参

 

12 2月 ’14 産土

 

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あらためまして今年もよろしくお願いします、マイルでございます。

編集でバッタバッタ、去年の疲れでボッロボッロな僕ですが、

息抜き的なことも含めて、久々の機材ブログを。

HDDがだいぶ容量がなくなってきたんで、迷いましたがポチっちゃいました。

ラトックシステム RS-EC32-U3R (約8000円)やっすー。

今使っているのが、16TBで5Bayの林檎派で買ったあんまよくないHDDなんですが、

やすさと、バックアップでいいやーということで、色々調べてこれにしました。

mac環境での映像編集って、未だにTundeboltか、USB3.0かって迷いますが、

Thunderbolt先生はまだ高いし、僕みたいなもんには未知数なんで、USBチョイスです。

 

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13 1月 ’14 mileblog

「脱帽」
2012年の大晦日にしたように、今年も最後の日に合わせて映像を作ることができました。
「続く」という文字で終わった『産土』の続編となる、『産土 ー壊ー』という作品の長尺予告です。
詳細な説明は今は省いておきますが、ややもすると忘れてしまう大事なもののことを、想うきっかけに
なったらよいなと思い、敢えてこの日に見れるよう、ちょっとだけ頑張ってみました。
(それにも増して大変な本編の編集作業が残ってはいるのですが…)
僕自身は編集しながら、不覚にも何度も何度も泣いてしまい、中々捗らなかったです。
12月に山梨県早川町で『産土』の上映を終えた後、
自分の無力さ、非力さについて悔いました。
「なんかの答えがあると思って来たのですが、厳しい現実を再度突きつられた」という
声も頂戴しました。
自分がこの地域のことをとりあげても、なんの解決にもならないではないか。
上映を終わった人々の顔に、なんともいえぬ悲しさのようなものが漂っているな、と。
自分自身は前作、悲観を土台に製作しませんでした。むしろ楽観すらしていたといっていい。
おそらくは東京の空気を引きずる、現実を知らぬ若造と外国人の或種の陽気さがあったかもしれない。
たとえば、久高島の秘祭・イザイホーを「もう終わってしまったこと」と敢えて言い、
きっと復活するだろうということを暗に匂わせたつもりでした(僕はそう感じたのだから)。
が、そこに「希望」を読み取れた方はどれくらいいたでしょうか。
福島を回ってから軽度の鬱のような状態になり、まったく癒えない疲れを引きづって、夕べには室戸の太陽を見れば、
明日には敦賀から日本海を望むような生活をしてみて、どこにも逃げられないような感覚に襲われました。
産業道路や高速道路や、バイパス付近の風景はどこも異様に似すぎていて
いったい自分がどこにいるのか分からなくなってしまい、あるシラケに似た感情が出て来た。
上映会を終えて、再度袋井市でび撮影後、浜松方面に移動しながら、今の今迄撮影してきた地の神の祭のような原始的な信仰がありながら、その当日に、老人を否む中年の夫婦の罵声や、パチンコ屋や、着飾った若者達のデートや、享楽にあけくれる日曜日の浮ついた町並みがどうしても耐えられなくなり、吐き気のようなものが出て来て、どうしようもなく車を停めてじっとしていました。町並みが自分の実家のある、四街道市から千葉市へと至るそれに酷似していたことも、おそらくその吐き気の遠因の一つだったでしょう。
目の前の、防波と燃料という役割と、景観美を誇った松林が、海から人を遮断するコンクリートの堤に代替される。
まるで獣害によって電流のとおる電線に囲まれた「人間居住区」に住む山の生活のように。
江戸の大津波から人を救った命山という小さい岡の話しを聴き、最初の取材時にはつくりかけていた「現代の命山」が
2度目にはほぼ完成されて小高い公園として、非力に、かつもっともらしく眼前にある事を知ったけども、
いずれこの遠州の海岸線のかなりの部分が、防波堤に囲まれ、その土はあの山から切り出すのだ、
そしてそこにニュータウンを建設する話しがもうすでに決まっているのだ…といったような話しを又聴き、
なんのために自分はその山向こうの祭や森を切り取っているのか、まったくもって無力ではないかと…。
しかしそれでも、自分は諦めないつもりであります。そう、おぼろげに呟いてみる。
「放射能を『荒ぶる神』だと私は捉える」と、或る福島の女性から聴きました。
幼稚なポジティブシンキング等ではなく、それはもはや祈りの領域です。
そこに、僕自身は希望を見出すことができました。
自分のやり方は、プラカードを掲げてシュプレヒコールをあげることではなく、
映像をつくることしかできないですが、それでも映像の力を信じれるようにはなった。
11月に嫁の父が他界しました。彼は目が不自由で、視界の8割くらいはほぼ見えていなかった。
しかし前作のDVDを僕が渡すと、なぜか毎日亡くなるまでそれに見入ってくれていたようでした。
作り手としては、前作は多いに不満が残るデキです。時間があれば、全部直してしまいたい。
機材の準備も取材そのものの期間も、全部もう一度時を戻してやり直してしまいたい。
が、それでも何かを感じてくれた人がいる。
8月にカナダで上映会をやった時、次作に繋げてくれと円に換金された募金の
一万3000円を手渡されたました。海外にも、僕らの映像を待ってくれている人がいる。
時間も予算も人手も、多いに限られている作品ですが、それが「潤沢にあれば」という発想を
もう捨てようと思います。予算や時間の多寡にかかわらず、これは2013年の僕とその仲間達が、
精一杯やった結果なんですから。僕には視聴率も編成もスポンサーのご意見もないのだから、
自分自身の拙さも含めて、それが「現在」なのだと、腹を括って、笑いたい。
自分に出来ることは、大事だと思う場所に勝手に赴き、帽子を取って「はじめまして」と言い、
「撮らしてくれませんか」と問い、それを映像に納め、世に問いかけること、それだけです。
一つ何かを撮ったことで、また何かを撮らなくてはならなくなる。
撮り残し、撮りこぼし、撮り忘れ、撮りそびれます。それも含めて、自分自身です。
しかし僕には、日本のあちこちに、親のように、祖父や祖母のように、思えるような
人生の師が、たくさんできました。それが財産です。
心配してくれたり、叱ってくれたり、古いものを教えてくれる人々が…。
諦めるということではなく、教えて下さいという気持ちで、僕は帽子をとって
その人たちの想いを傾聴してきた。(無論受け入れられない事もあるが…笑)
ともかく、これはそういう記録です。
そして又これは、予告編にもあるように、神山という小さな町で生じた「縁」で集った仲間が、
「小さな勇気」をだして製作したことを特筆すべき映画です。ほとんど、映画作りの専門家はおりません。
しかし、ここまでには形にする事ができました。
できればこれをご覧になられた奇特な方々にも、ぼくらの仲間になって貰いたい。
まだつくらなくてはならないものが、いくらでもあるのですから。そう願っています。
あと何年続けられるかわかりませんが、
精一杯続けていく覚悟だけは強め乍らの大晦日の晩。
今年もみなさま、たいへんお世話になりました。
(できれば下部のHDボタンをONにし、全画面でご覧下さい)
長岡 参(喪中により、新年のご挨拶と換えさせて頂きます)

以下は、2012年9月30日にFBのノートに書きなぐったものである。

1年以上過ぎた今久しぶりに再読してみて、若書きや知識や情報の欠乏を感じる。

特に2年間あちこちを回って来た前と後では、日本というものの現状、田舎というものの現状に

対して大きな認識の差があるとは言っておかなければならない。

それでもここで述べている当時の心象と現在のそれと、そう大きな変化はない。

そういうことからここでこちらのブログに再掲しておきたいと思うとともに、

こういう「田舎暮らし」にまつわることを、今後発信して行きたいとも思う。

 

 

最近僕の周囲が慌ただしい。様々な思惑、様々な業種の人たちが、入れ替わり現れる。気分的には、嫁と子と犬に囲まれた、ただの住民と化しているので、よくもまーこんな田舎にみんな好き好んでくるなあという牧歌的心象すら抱いているのであるが、僕自身Iターンの端くれとして雑誌に掲載されたりなどという、望む望まないにかかわらない取り上げられ方をし出していることに、少なからず自分自身としても違和感を抱えている中で、僕がどういうスタンスでここで生きているかという所見を、この際ちゃんと表明しておいた方がいいような気がしたので以下に記すことにする。もちろん、長文になるであろうこんな文を誰も読む必要はないので、スルーしてもらって構わないが、仮に読まれた後で、価値観のズレを指摘されたり、非難をされたり、議論を吹っかけられたりすることは、歓迎もしないが厭わない。また一表現者及び、一移住者の思考としてなんらかの問題・議題を提出することになる可能性もあるが、ほぼ戯言の類であると看過されて構わないと始めから申しておく。

 

ー「あんた地域を食いものにしてるんだ」と、4年ほど前墨田区のとある場所で言われたことがある。

誰だったか、サヨク的な思想を持った中年の建築家にだったか。僕は鬼の形相で反駁し、抵抗し、ちょっとした喧嘩騒ぎになった。周囲からは、そんなにムキになるのなら、あんたはちょっと違うんじゃない?と言われ宥められたが、僕の怒りは収まらなかった。「地域」という言葉をやたら神聖化し不可侵なものにする輩の存在に、この時始めて気がついたのであった。そもそもの言われたきっかけは、僕がその当時移住した墨田区京島のドキュメンタリーを、町の文化祭のために制作し、それを上映したからだったのだが、「食い物」と云われるのは、論外も論外、全くもって自腹でスタッフと機材とを掻き集め、何度も取材の現場と事後の徹夜を繰り返し映像化したのであって、その地域から金をふんだくってやろうなどという意識は微塵もないし、そもそもその場所にふんだくれるだけの財も、ない。どちらかというと「表現者としての義侠心」のようなもので動いていたように思う。もっと噛み砕いてみれば、老人たちが持っている郷土的な心象や知見を、次代に引き継ぎたいというスイートな気持ちも十二分に持ち併せていた。おそらくそれがオオヤケから依頼されたビジネスだったとしても、僕はそのような気概で取り組んだに違いないが、ましてや自前である。故に「怒る」という感情に至った。イチャモンもいいところだし、瓢箪に駒だったし、ならば「おまえがやってみろ」と思ったのであるが、だいぶ時が経ち振り返ってみて、ほんの僅かだが、「食い物」にした部分もあったな、とやや自省しなくもない。それはその地域の来歴や老人たちの現在を、ある種の「ネタ」として捉えたからだ。

 

「ネタ」にする。そんなことは表現者なら当然の欲望である。そもそも「ネタ」を明確にし、認知し、向かわない限り、取材という行為も撮影という行為も成立しえない。が、テレビを中心としたメディアが、それを余りにも過剰に、己たちの保身と増殖のために使ったがゆえに、人々は嫌悪を抱き、頑なに拒みもするのも又事実である(と同時に情報の消費者として、未だにそこに闇雲に群がっているのも事実ではあるが)。だからこんななんの肩書きも腕章も付けていない僕にですら、「メディアの人は」とか「撮影はちょっと」等と日頃云われてしまうのだ。大手のメディアだろうと、個人が自前で作品として制作するものであろうと、大差ないと思われているのが厳然たる事実だ。そんな僕の立場から言えるのは、彼らがあまりにも事実関係を無視し、反故にし、自分たちのメッセージのために粉飾し、切り刻み、編集している(もっというと、不必要に長時間の取材撮影をし、品行悪く周囲をうろつき、無駄に多数のスタッフを引き連れ、根掘り葉掘り不躾な質問をし、しかもその成果物が事実関係を無視してすらいる)、からなのだが、だが僕自身、今語るべき物/語りうる物は何なのか?を問い続けた挙句として、老人たち、限界集落といった現代の「荒び」に目が行くのだし、懺悔してみれば、僕はどうしようもなくそれを「ネタ」として利用している。ゆえに「食い物」にしているという表現は、妥当でないとはいえない。(たとえそれが視聴率拡大のためでも、販売促進のためでなくても、今までで初であるとか、これを自作として公開したいという僥倖心がなくはないし、そういった疚しさはどうしても拭えないことを報告しておく。また、現在その「ネタ」を巡る助成事業を委託されている身でり、それをシノギにしている立場ですらある。)

 

上記を踏まえ、今この神山という地に至り、一住民として住んでいる自分はどうなのか。そもそもがただのきっかけとして、神山というフィールドを与えられ、テーマもそこから探しだした。そう、勝手に、である。その過程で、ある散髪屋の老婆のドキュメンタリーを撮る中で、短期滞在を、中長期滞在にさせ、かつ長期滞在をこじらせ、(いつの間にか結婚と子供の出産を済ませ)ついには彼女の家の前に住んでしまったわけだ。なぜか?と問われてもよく分からない。僕は彼女の存在に圧倒され、彼女の内面の修羅を見、それを映像に収めたいと思った。彼女はいつの間にか被写体以上の存在になり、親よりも健康を心配し、内面を吐露仕合い、毎日のように触れ合うようななにものかになった。いわば恋のように。

 

くり返しておくが、そもそも神山(or KAMIYAMA)に来たかったというわけでもなく、レジデンスやらサテライトオフィスやらに興味があったわけでも何もない。ましてやスローライフが送りたかったわけでも、放射能から逃げてきた訳でもなかった。ただただ、表現という行為の延長として、東京の微温湯の中に身を据えていては分かり得ない「現在の肖像」をレンズ越しに知りたいと思い、偶然の縁を伝ってここまで来ただけであるので、神山に意図的に、自ら望んで、地域や町おこしや自分探し等のキーワードで来た人々の心象は、申し訳ないが、まったく共有できない。また、そこにビジネスチャンスを見出しやってきた人々の思惑とも僕のそれは違っている。そもそも地域においてビジネスチャンスは指折り数えるほどだと思っているし、現にそうだ。その地域の一般家庭ですら、所得が低下し、仕事先も少なくなりゆく中で、なぜ不意にモメントとコンタクトする機会のあった一移住者(一事業社)が、自己を延命させるためにやってくるのか、そこで地域の経済を吸い上げてしまうのか。その地での平均給与以上のギャランティを確保できてしまうのか。そこで雇用なりを僅かでもつくっていれば別だが、そうでもない限りは、同様の地元の若者たちや中高年者たちの仕事の機会を奪うことになるのであり、食い物にする以上に非常にナンセンスなことをしているといえる。(時代の目から見て全くもって遅延している表現のまま癒着的に仕事として成立しているようなものは淘汰されていいとは思うが)例題としてあげてしまって申し訳ないが、若い移住者の一部が、土木作業の臨時仕事を手伝うのは大いに間違いであったと思う。そのような仕事にしかつけない人々の絶対的仕事量を切迫して何になるのか、と。それは行政が取り締まってもいいようなことであるとすら思う。それは己の口を糊するために必要なことであるのは分かるが、なんのために地域にやってきたのかを彼らは真剣に考えた方がいい。若い人間と触れ合えて気持ちが若くなったとか、若者のいない町に活気が戻った、などという表層的な牧歌論に共感できるほど、限界と呼称された地域の修羅はスイートではないはずだ。右も左も、腕に職も、身に色もついていない若者が、自由自在に欲望を結実させる桃源郷であるほど、田舎の経済は甘くはないのだ。(とはいいつつ、山村留学等で都会で苛められていた子どもが活発さを取り戻したり、ある種のモラトリアムとしての機能を田舎が背負うことに関してまで否定はしない。或はそのような状態から抜けだそうと足掻く姿には、手を差し伸べようとする気持ちを禁じえない。)田舎に限ったことではないはずだ。僕が住んでいた東京の下町で、町おこしやら新タワー特需やら景気のイイ事に踊っている裏で、多くの障害者や末期老人たちが悲痛な人生を送っていた光景を僕は何度も目にしたのを忘れてはいない。深甚な介護があり、年金のみに怯える暮しがあり、業態の変化に伴う数多くの衰退があり、夢と現実のハザマに彷徨う多くの倦怠がある。新タワーの巨大なフォルムは、彼らの影をいっそう濃く、深くさせてしまったことを僕は忘れてはいない。

 

…いざ、自分に矛先を向けてみると、僕は子どもが去年の年末に誕生するまで、笑えるほど「食べる」ということについて全く考えていなかった。そう、僕は片輪なのだ(笑)。気取ったことをいえば、生活者としての自分よりも、表現者としての自分を優先させていていた。(生活者としての自分は当然そこにいる、僕は全財産を自分の機材を購入することにつぎ込み、東京から神山に越してくる時に使っている。明日の糧に窮することは往々にしてあるし、これからもあるだろう)昨年撮影した、女木島の映像にしても、まったくの自腹である。大きなプロダクションだったりならば、予算をどこからか引っ張ることも可能だろう。文化庁等の省庁の予算を引っ張ることも可能だろう。だが、僕はたかだか個人の「カメラを持った男」に過ぎない。しかも今の時代にあって盛んに喧伝されているようなネタを扱っているわけでもないし、今風の表現をしているわけでもない。更に僕には明確な政治的メッセージがあるわけでもない。それが、どのように公開され、どのように人々の中で膾炙されるか等ということも夢想こそしけれ、ほぼノープランだと言っていい。だが、僕はこれが「今語るべき情報である」と本能的に思っている。僕は小さな町工場にも、困窮する老人たちにも、若者のよりつかない黴臭い鄙びた祭りにも、一枚の煎餅の成り立ちにも、不可避的に興味がある。それらは、現在に到るまで、「語るべきもの」とみなされてこなかった対象たちだ。映像は広告に従事してきた。し過ぎてきた。そこで甘い蜜を吸いすぎて自堕落になり、高飛車になりすぎてしまった。マーケティング的なデータにのみ拘泥し、それがどういう人たちであるか知ろうともしなかった。語るべきは、生活者そのもであった、ということを忘却してしまった。(いや、始めから知らなかった)

 

僕は、孤独な闘いを挑んでしまった。それはずっとこの7年間ぐらい変わらないテーマだ。生活者の肖像と心象。それを興味本意に作品として結実させようとすると、自腹という選択しか今のところなくなる。どこかから予算を付けるという才能が、悲劇的に欠けているからだ。が、僕は興味を抱くというある種の性癖的行為を、止めることがどうしてもできない。目はそちらをみてしまう。スカートをはいた女性を本能的にチラ見してしまうのと同じだ(笑)そこはもう、ロジックではないのだ。ここが、僕の戦場であり、ノルマンディーの海岸なのだ(やれやれ)。…が一方で、「自腹だというが、おまえはどのようにして食っていたのか?」という粗暴な質問が投げられるのは自明である。不用意な人々は得てして反射的にそう聞いてくる。それに対しては、僕は去年の一年間、東京の小さな制作会社の社員として籍を置きながら、神山で生活していた。そこの社長と僕との、模索だった。ゆえに、最低限生きるだけの給料をなんとか確保しつつ生活することができたと説明可能だったのだが、今年の一月からは個人事業であるので、運と縁でやってきた仕事を糧にしていると云うしかない。実際そうだ。無論、家賃の低いこの場であるからこそ成立しているのであって、家賃が未だに高すぎる都会では首を括るしかないモデルである。

 

…だが、僕は「信じて」いるのである。盲目的に。「信仰」だといってもいいほどに。信じている、というよりは、絶望的なほど、楽天的に疑っていないというほうが誠実だろうか。こっちにやってきてしばらくしてから、Mさんに云われたことがある。「ここでは、自分の出来ることを出し惜しみする暇がまったくないのだ」ということを。二年住んでみて、まったくそのことを同意するのだ。東京で勤務していて、クリエイティブ・ディレクターという肩書きがついたことが二度ある。が、僕はほとんどなんのクリエイティブ・ディレクションも担っていなかった(担わされていなかった)。その職能にあるものがそれを担わなくていいほど、余剰なものに金を払う能力がそこにあったわけだ。が、そんなゆとりは今の僕にはまったくといっていいほどない。身体の弱さをないことにして、あらゆる場に赴き、あらゆる仕事をこなさなければならない。そんな中で、僕には自分でも気がついていないところに特性と傾向があったのか、そこを期待され仕事の依頼されるケースが増えてきた。それは今まで強みとしてはまったく認識していなかった特性であった。そして多くの仕事で、自営業者としてまったく代わりが利かない立場を担っている。身体が資本であり、エクスキューズはまったく利かない。父親としての自分も、旦那としての自分も、表現者としての自分も、毎日がリミットを更新する作業である。ノープランの中で、縁が縁を呼び、仕事となる。どんなにギャラが安くても、今の僕は全身全霊を打ち込めている。それをやり続ければ、自分の生計は維持できると今は思っている。

 

生計を立てるということ、それを「食い物」にしていると今誰かに罵られても、別に否定はしない。僕がここにいることで、誰かの生活を大幅に阻害し、収入を下げさせてしまっているのならば、たぶんここから出て行く道を選ぶだろう。が、僕の特性や特色を誰かが必要としてくれる限り、僕は「カメラを持った男」であることを続けようと思う。それだけなのだ。洗いざらい語ってしまえば、僕は今年映像を完成させ、仕事を満足にできないのであれば、レンズとカメラを破壊し、すべてを辞めて他のカタギの商売にでも付こうとすら、真剣に考えていた。おかげさまでなんとか今日も晩飯が食べられるが、このような危機感はこれから日常化することになる。親には「安定してくれ」と言われるが、安定などどんな人にも存在していないと即答することにしている。僕が興味と仕事先としての視線を向ける中小企業も、不安定な会社の方が多いことだろう。そこは不安定な者同士のせめぎ合いなのだ。僕という漠然とした「広報装置」を、どのように不安定な企業や組織や個人が、扱うか。僕は思考すること、研磨することを止めはしない。僕の仕事は、それに賭け、共感してくれる人々との共同戦線だ。ローカルのクリエイティブはダサいとか、そういうことを東京の目線で語りたいわけでもない。金額の多寡という尺度でもない。僕の目安は、「僕が興味を持てるか」なのだ。ただ、それが結実するだけ、ということだ。東京に居る時、「こんなことをするために生まれてきたわけではない」というのが酒場での口癖だったように思う。だが、僕がこの世に生を受けた理由を、今問うのならば、「興味を形にすることだ」となんとなく言えるのである。

 

最後に場について書いておく。僕は「明日の神山」よりも、「今の神山」に興味があるのだ。生活者として。霧や靄が当たり前のように漂う山の風景を愛しているのだ。夏のすばらしさと、冬の厳しさ、その双方に身を置いてそれを遠慮がちに楽しんでいるのだ。ゆえに、周辺でかまびすしい風力発電問題にもなんら是々非々をどうこうするつもりはない。個人で考えたうえで、自分の一票を投じればいいと無邪気にも思っている。なぜ、今周辺で「明日の神山」を理想化・神格化し、その桃源郷から逆算して現在を否定するのか。ここは桃源郷性愛者のアレックス・カーに糞味噌に言われた通りの、コンクリートに埋め尽くされ、まともに主導的に内政も外交も悲劇の後処理もできやしない日本なのだ。そこを否定しだすのなら、僕はもはやこの国に住む力がなくなる。だが、僕はこの国がまだ、好きだ。汚点も含めたこの国の優しい人々と、それでも美しい風景が好きなのだ。今年に入って、様々な地域を旅することが増えてきたが、その折々で出会う風景や人々を見て、僕は未だ日本人であったことを思い出し、誇りに思いすらしている。ただ否定のみすることに僕は抗う。それはあまりにも安易であろうと。ヒステリックに例証をまくしたてても、人はなにも揺り動かされないのだ。身も蓋もない極論だが、本当に「明日の神山」を、はたまた「明日の日本」を是々非々するならば、政治家として立候補する他はない。それができなければ、つまり内部としてシステムを改変する側に立たなければ、ただの無為無策な戯言だ。もしくは福島の詩人のように、それぞれのフィールドから腹の底を絞りだし、なにかを語り出すことが大切なのだ。それは町づくりにも敷衍できよう。元気な町、元気がない町。カリスマ的リーダー、それがいない町。熱がある町と、ない町。そんなことを外部から批評しても、実はなにも始まらない。内発的になにかを発信し続けない限り何かが変わることも、何かを担うこともない。外から指摘すること、それがどんなに穿っていようと、それはただの一般論に過ぎないのだ。(人は一般論を愛し、一般論を拡散し、促される傾向にある)僕に出来るのは、カメラを据えて記録することだけだ。情報の表皮を撫でるのではなく、ただ見守るだけの不安定な定点カメラとして。それが「語るべき情報」として、或は人を動かすかもしれない。はたまた、ただの時間のゴミとして扱われるかもしれない。が、それは僕の問題ではない。映像は、鏡だ。鏡に写ったものをどう考えるかは、それを見た人々の問題なのだ。それが内在化した「カメラを持った男」としての唯一の町への貢献の仕方なのだと思う。そのような存在であるということを、僕はようやく受け入れだしてきている。

 

 

後記1: 一つ言い足りなかったのは、「地元」という語に関してである。鶴岡の山伏が僕に語ってくれた。「自分の祖先だって何代か前に他から移り住んできたんだ。そもそもが余所者だ」という言葉。マタギからも、6代くらい前に栃木から移り住んできたらしいとの言を聴いた。一代前から猟師になったらしく、その前は宮大工だったという。もっと言えば、東京の下町を取材した時も、そのほとんどが出自を異にする人々が集まり、移り住んだ、ということ。うちの親父の実家は長野にあるが、それも6代前に新潟から移り住んできたと聞いたことがある。…「地元」という言葉は、どこからどこまで適用されるのか。生まれ育った地という意味ならば、うちの子は徳島生まれなので、ここが地元であるが、その親たる僕ら夫婦は地元でないのか。…つまりが、そんなあやふやな言葉なのだ。それをあたかも神聖な言葉のように扱い、金科玉条のようにし、それ以外を差別化するための語として、あまりにも不用意に使用されていることに、相当な違和感がある。

 

後記2:「地元」という感情はどこから起因するのか。一つは生まれ育った記憶を担保とする感情である。その土地で、暮らしてきた様々な記憶が蓄積され、「記憶の年長者」としてふるまい、新参者を時に受け入れ時に排除する緩いシステムになる。摂取と排除という免疫のようなシステムは、当然といえば当然の働きだ。例を二三。朝鮮や中国からはるか昔に渡ってきた渡来人・帰化人のようにこれまでの日本には存在していなかったような専門的職種の職能たちは、排除するどころか丁重に扱われ、次第に同化していった(僕の母方の遠い先祖もその一人だったという)。焼畑、稲作、土木、建築、医学、宗教、芸術等々の根本的ベースは彼らが担ってきたのである。平家の残党伝説は、最古のIターンの歴史だとも捉えることも可能であり、彼らは排除されずに、共存し、土着化していった。(つまりが、その土地々々にとってボトルネックであるような職能に移住・移動に関しては、歴史的にみても比較的頻繁に行われていたということであり、現代でも当然起こりうるハナシである。)又、民間でも「客人信仰」のように、外部を内へ取り込むような働きもその裏で歴史的には存在していた。神話にある娘を客人たる神に差し出すようなことも、実際あったのだと想像されるし、現在まで続くお遠路へのお接待という文化も、そのような働きの延長線上にあると思われる。

 

もう一つは、地霊との交信という側面がある。土地を開墾するということは、その地の神に伺いを立て、承認をもらう代わりに神殿を建立し、以後代々に渡りそれを崇めてきた。山と共存するということにしても基本的には同じ思想のもと行われ、山から里に近い山を借り受け(里山)、その場で基本的な生活の糧を得るため、そこは入会地とし、崇めつつ共に働く場所とした。奥山に入る際は必ず山の神に祈り、狩猟や採集、伐採をする際も、神事のような段取りを経ていた。つまりその行為を人が行う場自体を、「地元」と呼ぶということだ。その観点からすると、現代になって入会地/共同所有という概念はなくなり、里山や鎮守の森は荒れ果て、祭りも形骸化し、地霊は忘れ去られているような(マツリゴトの行われていない)土地では、そこの住民は「地元」として振る舞えないというような極論も同時に成り立つ。また、マツリゴトを共に行う移住者は、「地元」と呼称できることになる。(未だに激しい祭りを行っている女木島ですら、もう外部の協力なしには、祭りを存続し得ないと語っていたことを思い出そう。形骸化しつつも伝統として保存するのか、進化論に従い朽ちるに任せるのも宿命なのか…)

 

23 12月 ’13 mileblog